菅沼 緑

2016年

2016DM

 今までにたくさんの形をこしらえ、自分なりに仮の考えに裏打ちしようとためし続けてきた。
 その結果?結果など過去の時間に積み重なるだけで、次の時間へのあらたな望みが見えるものと勘違いすれば、自分の都合に色を加える、きわめて個人的な想像の範囲だけの視野での話の連続だった。
 想像することの飛躍の突拍子のなさに、わたし自身の個人的な事情が存在理由になるのかもしれない。そんな密かで愚かな望みをかけていた。
 水の流れに浮いた、ひとつの泡ぶくが陽の光を受けてきらりと光ったとして、それが何なのよ。と斜に構えるところもまだ、未練がましく手放せない。
 想像は、おそらく觔斗雲(きんとうん)のような媒介がなければ、飛躍も滞留もできないのでは無いだろうか。
 無限と有限の境目のない、うわべの飛翔をなぞるだけで、恐れ入りましたと、ほとんどお手上げしながら、芸術なんて、どうでもいいやと、自暴自棄じゃないよ。螺旋のような空想の中で、50年目の夏も50年前と変わらず暮れてゆく。

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