内田 邦太郎

パート・ド・ベール
ガラス・スタジオ

〒299-4301
千葉県長生郡一宮町一宮
6983-4

Tel&Fax 0475-42-1110

2007年の写真

2007DM

アール・ヌーボー期フランスで生まれた、細かく砕いたガラスを型に詰めて焼くというガラス工芸の中でも最も難しく幻の技法といわれてきた 「パート・ド・ベール」を戦後日本で初めて再現した屈指のガラスクラフトマン。硬さと柔らかさ、透明と不透明、このロウ細工のような 独自のガラス生地は不思議な世界をつくりだしています。


ARTIST HISTORY

1942年 京都に陶芸家の長男として生まれる。

1967年
・東京芸術大学美術学部工芸科卒業。(鋳金専攻)
・大阪市立工業試験所無機科学科ガラス研究室に入り、色ガラスの調合研究をする。

1968年
・大阪在、三友ガラス工芸入社。職人として5年間吹きガラスの技術を学ぶ。
・京都在、家業を手伝う。

1974年 東京在、工業デザイン事務所「M・I・M」勤務。

1976年
・日本では幻の技法と言われていた、フランスのアールヌーボー時代に生まれた「パート・ド・ベール」を戦後日本で初めて再現し、作品を種々のガラス展に発表。
・この年より毎年1回、池袋パルコギャラリー、吉祥寺パルコ、南青山アメリアギャラリー等で個展を開催。

1978年 東京クラフトデザイン研究所にガラス科創設。

1980年 アトリエ飛行船にガラス科創設。
・この年より三晃硝子工業(株)のデザイン技術顧問。
「内田クラフト」の名前でガラスプロダクト製品を発表。

1984年
・この年より毎年、オンワード樫山新人ファッション大賞のトロフィーを製作。

1986年 京王プラザホテル、美術サロンにて個展開催。

1987年
・2月、京都ホテルにて個展開催。
・2月、東京ホテルニューオータニにて個展開催。
・7月、ニューヨーク、ヘラギャラリー「アート・グラス・ オブ・ジャパン展」招待出品。

 同展出品作品をスイス・ローザンヌ美術館が買上収蔵。
・8月、東京東急デパート本店にて「内田パート・ド・ベール・グループ展」主催。
・10月、東京東急デパート・東横店にて「アール・ヌーボーに魅せられて展」(三人展)出品。

1988~2007年 毎年、10回ペースで精力的に個展を開く。

2007年 7月ギャラリー・ブロッケンにて個展。現在に至る。

パート・ド・ベールとは

『パート・ド・ベール』とはフランス語で、ペースト状のガラスという意味です。フランスのアール・ヌーボー初期の、ロダンと同時代の彫刻家アンリ・クロ(1840~1907)が着色されたロー(蝋)を使ってレリーフ作品を作っていましたが、 ローのままだと脆く、欠けたり溶けたりしやすい為、何とかローの質感を残しながら丈夫な物が出来ないものかと考えました。そして様々な色ガラスを砕いて粉状にした物をのりで練って耐火性の方に詰めて焼き、 溶かして固めた後に方を壊して中のガラスを取り出すことを思い付きました。その為にその技法のことを「パート・ド・ベール」と名付けられました。しかし、のりの為焼けた後不純物の影響で無数の泡が発生し砂糖菓子の様で、求めていた ローの様な質感が得られませんでした。アンリ・クロの弟子達の世代(アマルリック・ワルター(1869~1959)、アージー・ルッソー(1885~1953)、フランソワ・デコルシモン(1880~1971) 等)に成って漸く、ローの質感をもった作品が出来る様に成りました。しっかし、第二次世界大戦を境にしてこの技法は跡絶え、戦後しばらくは、ガラス工芸の中でも最も難しい幻の技法と言われて来ました。 この技法は形もローで原型を作る為に手で納得がいくまで自由に表現が出来、色も粉末状の為に混食や濃淡が思いのままに調節出来るのが、大きな特徴と成っています。

誰の為に制作するのか

過去の中世や封建制の時代では、ミケランジェロや、ダヴィンチの様に、法王や王侯貴族、日本では殿様の為に奉仕させられていたが、現代では一般大衆が主人公の民主主義の世の中ですから、アーツアンドクラフトの愛好者の為に奉仕するのがアーティストの使命でしょう。ミケランジェロも決して自分のために制作していたのでは無く、全て注文制作で、クライアントが必ず居り、全てのアーティストが職能であった。それは現代でも同じで、奉仕する対象が換っただけなのです。

何の為に制作するのか

工芸も、物が有り余っている現代では、物の質(クオリティー)や、機能(フィクション)や、形(デザイン)を求められた時代は過去の事と成り、今日では精神性や、心のゆとりと言う面の方が重要視されて来ています。平たく言えば、絵画や彫刻や工芸も癒しグッズなのです。 新しいライフスタイルにのっとった自己主張とセンスにより自分の感性に合った物を選ぶ事が、とりもなおさず自己表現の手段と成り得るのです。
  今や与えられる価値観では無くトータルにコーディネイトをして、自分の身の周りの物を整える事で、誰でも創造の世界に参加して行けるのです。 アーツ・アンド・クラフツ愛好者の創造意欲を刺激するに足る素材としての作品を提供していく事が、私の使命だと思っています。

どの様に制作して行くのか

学生時代に将来の自分のコンセプトを見つけ、テーマを決定するに当たり、イギリス王立芸術学校で教えていた彫刻家ヘンリー・ムーアは、4年間を通して1つのテーマを与えて徹底的に追及させた事は有名です。一生を賭けるアートの世界では、そうする事によってどんな人でも一歩踏み込んだ所までテーマに肉迫出来ると言うものです。  1つのテーマを追求する時に思い付く限り、100~200のアイディアを出せば、初めて1つの質的に乗り越えた発想に行き当たる事が出来ます。これは「量的変化が、質的変化をもたらす」と言う唯物論の考え方で説明出来ます。自然界の現象でも、 水と言う液体が水蒸気と言う期待に換わる時には、99℃~100℃を越える時に、たった1℃の事で大変なエネルギーを必要とすると言います。  ああも考え、こうも考える、「人生は否定の否定を繰り返して向上するスパイラルの様なもの」で、平面で見ると同じ円をぐるぐる廻っているようだが、側面から見ると高さが変わっていて質的に向上しているのです。

一常識を捨てると本当が見えてくる。
1つの知識や過去の経験のみに頼っていないで、全く無意味に見える事や、必ず失敗すると思われる事を、ダメ元で実行して見ると成功する事が有る。オスカーワイルドの小説「ドリアングレイの画像」の中に登場するヘンリー卿の言葉に「もしも君が若返りたいと思うなら、若い時にした失敗をもう一度繰り返すだけで充分だ。」と言う下りが有りますが、これは一度過ちを犯すと、二度と犯すまいとして慎重になり過ぎて、冒険心を失い精神的に年を取ってしまうと言う意味です。この事は一見無順している様ですが、全て両刃の刃、毒と薬と同じで使い方によっては問題を切り開いていくための強力な武器と成るでしょう。 仕事の上達はより多くの経験を積む事によってのみ達成され、100%仕事に教えられる事以外には無いと言える。こうすればこう成るだろうと仮説を立てて実験をして見ると結果が出る。その繰り返しで自分の為のデータがどんどん増えていき、その積み重ねがキャリアとなって行く。それ以外に上達する方法は無いでしょう。特に若い内は、出来るだけ多くの種類の失敗を経験しておく事で悔しい思いをし、同じ失敗を繰り返さないよう無意識の内にタタキ込まれて行くのです。その失敗の数と種類が多ければ多い程チェックポイントの密度が高くなり、仕事の完成度も高くなって行くものです。

最も厳しく、最も重要な事は

決してどんな団体にも、派閥にも属さず、1匹オオカミで居ることです。権威や、権力や名声を求めて、団体や派閥に近づこうとした時から、真の創造の自由や、純粋にテーマを追求する姿勢を自ら捨ててしまう事に成るから。真のアーティストや、クラフトマンを目指そうとするなら、少しでも制約を受ける可能性の有る立場には、決して自分を置かない事です。

建築・美術・工芸に求められる
無用性

イギリスの小説家、オスカー・ワイルド著「ドリアン・グレイの画像」の序文に、「無用の物を作る唯一の口実は、人がそれを熱烈に賛美すると言う事である。 芸術は全て無用な物なのだ。」との一節がある。 建築は常識的に見て有用なものと考えねばならないが、有用性のみを追究しても全く味も素っ気も無い物が出来上がってしまう。 そこに使う者の感性を心地よく刺激して、使い勝手も良く、 見ても美しい空間も併せ持っている事が望ましい。

 

あらゆる作品に対する評価を的確にする為に、自分のコンセプトを持ち、 自分自身の「物を見る目」を養う為に、優秀な作品を見て、触れて、使う事で、自分独自の価値基準を持つ事です。 自分の作品に対しても客観的に評価を下して、何処が悪くてどうすれば良い物に変えて行けるのかの方法を見い出せるはずだから。 そうでなければただの自己満足でしか無いでしょう。又創造活動に於いては、 自分の専門分野の中だけに閉じ籠らずにあらゆる事に興味を持って取り組む事で、専門分野の仕事にも巾と膨らみが出て来るでしょう。

 

例えばル・コルビュジェは、スイスの時計師の父とピアニストの母との間に生まれ、少年時代は時計の彫刻師の従弟に成り、後に地方の美術学校に入って画家とデッサンを学んでいる。 その時期に美術教師からあらゆる時代の、 あらゆる国の美術の傑作を書物で学んでいる。上級時代に住宅三件を設計する機会を得て、将来の方向が決められたと言う。又修業時代にはよく旅行をして、 地中海地方の民家や民芸を熱心に見て歩いた様で、そういった様々な経験を積む事に依って後に、 都市計画家、画家、著述家、家具設計家、詩人と多方面で活動出来る基礎を築いていたと思われる。 フランスに渡り建築家ペレのもとで初めて鉄琴コンクリートを構造材料として用いて近代建築に目覚めている。ピロッティ(杭柱)ルーバ(日よけ)ファサード(全面ガラス)モデュロール(黄金比標準尺)等は、 コルビュジェが考え出したものです。コルビュジェと対照的なのが、アメリカ・ウィスコンシン州の田舎に生まれた、フランク・ロイド・ライトだが、母親は教育者でドイツのフレーベルの影響を受け児童学校を設立し、 ライト少年は結晶体形の積木や貝がら等を玩具として与えて、造形の訓練をさせていた様です。

 

日本では建築を学ぶには、東大、早稲田、東工大、芸大等の建築科に入学して学ぶのが一般的だが、殆どが理工系の中に建築科を置いている為、絵画、彫刻、工芸の勉強が併せて出来ない事と、 芸大の様に同じキャンバスにそれらの科を持っていても、カリキュラムに取り入れられていない点である。もっと感性を磨く事を経験吸収しないで、 構造力学ばかり学んでも、美しいものを創造する事は出来ないと思う。

 

約二五年程も以前の事だが、京都会館で、世界クラフト会議が開かれ、ガラス作家として参加したのだが、建築分課会に出席した。その時アメリカの建築家の一人は今、陶芸作家の美術館を設計中だが、 機能や用途のあらかじめ決まっている件が多く、あくまで建築は器であって中身が主役である事を強く主張し、又オランダから参加した人は、 オランダには当時から遡って二五年前から、 国営のコーディネーターの組織が有り、スタッフは10人程だが、世界中の建築家、画家、テキスタイルデザイナー、工芸、彫刻、造形家のリストや作品データ資料が豊富み揃っている図書館を持ち、 その組織で扱うプロジェクトは、最初の段階からそれに関係する全ての作家、デザイナーと協議設計をして進めて行く。 又その組織には総工費の10%が入る事に成っていて、組織の運営を賄っていると言う事であった。 その組織が設立されて今年で約50年にも成っている事にも成るが、日本にはまだその様な組織の存在は聞いた事が無い。

 

又、アメリカでは各州法によって異なるが、建築物の総工費の1~2%は必ず建築家に付随する装飾物(絵画、レリーフ、彫刻等)を設置しなくてはならない事に成っていると言う。  日本の場合は建築物が出来てしまってから万が一予算に余裕が出来た時のみ、その建築家の個人的に府会のある造形家に依頼するケースが多い。当然ちぐはぐな組み合わせとなる。  日本でも早急に、建築物に付随した造形物を必ず設置しなければならない様、法制化されれば、もっと国際的にも文化国家の仲間入りが出来るもとと思われるのだが。  これらの事は、建築に限らず、演劇、映画、文学、工芸に付いての国の制作費の援助組織や、地方地場産業の職人養成施設の充実等まだまだ遅れている面は多々有る様に思う。

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